ヒロダイで行われている最先端の研究や、キャンパス内で話題の施設を特集する『大学紹介』。
今回は「研究者の足跡」の第2弾!本コーナーでは主に若手研究者に取材し、研究者が「どんな人生を送ってきたか」にフォーカスします。
学生広報スタッフ「企画班」のメンバーで、大学院理工学研究科博士前期課程1年の山本 峻(やまもと しゅん)さんが取材・記事執筆を担当。今回は理工学研究科 数物科学科 野村 真理子(のむら まりこ)助教にインタビュー。
野村先生がなぜ研究の道を選んだのか、そして弘前大学に着任するまでに至る人生の軌跡に迫ります。
数物科学科教員なのに数学が嫌いだった!?
-アニメに出てくる惑星の名前に興味を持ったことが始まり
2023年春に理工学部に着任した野村真理子先生は、宇宙に存在する「ブラックホール」と呼ばれる天体の周りで起こっている現象を解明するための研究をしています。
今では難解な宇宙について研究している野村先生でも、宇宙に興味を持ったきっかけはなんとアニメでした。少女漫画が原作のそのアニメには、惑星にちなんだキャラクターが数多く登場します。その名前が気になり、図鑑で調べたりしていたそうです。また、両親が地元の科学館に何度か連れていってくれたこともあり、宇宙や天文に少しずつ興味を持ちはじめます。
-大学進学と徐々に深まる宇宙物理学への理解
現在ではコンピュータを駆使して、膨大な量の計算をしていますが、中学や高校のころは数学があまり好きではありませんでした。当時、数学の意義や学ぶ目的があいまいで、なんのために勉強するのかわからなかったからだそうです。
それでも、高校生になる頃には、大学で宇宙について学びたいという思いが芽生えました。当時は天文学と聞くと理科の中でも「地学」の分野を勉強しているような大学に行けばいいと考えていたので、高校生になったら数学はそれほど勉強しなくてもよいと思っていました。ところが、高校の先生に「宇宙に関心があるなら『物理』を学べる大学に行った方がいい」と助言されます。
-嫌いだった数学の意味がわかり始めた大学生時代
そのため、最初は仕方なく数学や物理を勉強していました。ただ、高校の物理の授業がわかりやすかったこともあり、宇宙を物理的な視点で研究してみたいと考えられるようになりました。またこの頃には、大人向けの科学に関する書籍や雑誌を読むようになり、現在研究しているブラックホールにも興味を持ち始めていました。大学受験の際には、宇宙について広く研究している森川雅博先生の存在を知り、お茶の水女子大学の理学部に進学することにしました。
大学では、研究のために基礎的なことをより詳しく勉強することになります。その時に、何の役に立つのか分からなかった数学が「物理を解き明かすための道具」として意味を持つことを感じ始め、次第に数学が嫌いな意識が薄れていきました。
研究がしたくて飛び級で大学院に進学!しかし現実は…
-強くなる興味と研究への憧れ
3年生の後期から、森川先生のもとで宇宙関連の勉強がスタートしました。勉強が進むに連れて、高校生の頃と比べて格段に知識が増えて、早く研究をしたいという思いが強まっていきました。
宇宙物理学の分野では、一般的には大学3年の後期ごろから自分の興味をもつ特定の分野を考えて、4年生や大学院の時にどんな研究を行うのか決めていきます。ですが、当時の野村先生はまだ研究経験がない中で、希望の研究室を決めなければいけないことに疑問を感じていました。そこで、早く実際に研究を始めたいと考え、3年生から大学院に飛び級で入学します。もちろん、制度として飛び級で大学院への入学が可能だったので、研究をするために積極的に行動したいと思ったことが大きな理由でした。他にも理由はあり、その一つが美術系の大学に進学した高校の同級生が、すでに個展を始めていたことでした。野村先生が3年生の時はまだ基礎的な勉強ばかりだったにも関わらず、友人はすでに作品を見にきた人と意見を交換していました。この時に、自分の考えたことを発表して、意見をもらうということへの憧れを抱いたこともきっかけの一つでした。
-思い描いていた研究生活との乖離
飛び級をして大学院生になったものの、すぐに研究を進められるわけではありませんでした。そのため、研究をするために必要な勉強に取り組むことにしました。
勉強の日々の中で、自分にできる研究が限られていることを痛感することになります。研究をしたくて飛び級をしたものの、研究をするための「武器」がまだ揃っていないことにもどかしさを感じていました。また、研究以外の大学院の授業でも、年齢が上である周りの修士1年生と比べて実力差を感じ続ける生活を送ることになりました。
周りに追いつきたくて奮闘!初めての研究成果
-研究会での出会いから、本格的な研究を開始
思い描いていたようには進まない大学院での生活でしたが、修士1年の冬ごろに先輩のつながりで野村先生の興味がある分野を研究している大須賀健先生(現 筑波大学教授)と出会います。
大須賀先生は当時国立天文台に所属しており、その分野で優秀な若手として注目されていました。国立天文台は野村先生が通える距離にあったこともあり、一緒に研究を進めることになります。
大学院を修了して就職を考えるのであれば、修士2年の初めに就職活動を行うのが一般的ですが、野村先生が本格的に研究を始めたのは修士2年になってからでした。やっと始めることのできた研究をたった1年では終われないと思い、この時期に博士課程への進学を決断しました。また、研究成果を出して、周りに追いつくことに必死で就職のことを考えている余裕もなかったそうです。
-やっと出せた初めての研究成果
それからは、週に1度国立天文台で大須賀先生と議論をして、残りの時間は大学で研究に没頭する日々が始まりました。最初はわからないことも多く苦労しましたが、徐々にできることが増えて、大須賀先生と一緒に研究を進める過程は楽しかったそうです。
博士課程に進学して、修士課程の2年から始まった「ブラックホールの周りから放出しているガス」の研究を一通りまとめて論文を出すことができました。その時感じたことは達成感よりも「やっと結果を出せた」という安心感でした。確かに、修士1年の時と比べると思い描いていたような研究生活を送ることができました。それでも、常に感じていたのは、すでに論文を出して結果を残しているより優秀な周りの学生との差でした。また、飛び級をしたことで周りより年齢は1つ下でも、学年が同じ人たちと比べてしまい、焦り続けていたことも理由の1つでした。
研究者以外の道もあるけれど、やっぱり研究が好き!
-周りと比較し続けて研究を続けることに疲れて…
その後、論文を出した後も研究を続けて、日本学術振興会特別研究員DC2*に採用されました。特別研究員として、博士課程を修了した後も1年間は研究ができることになったので、お茶の水女子大学で博士号を取得した後に、国立天文台で研究を続けることになります。しかし、この時には、周りの研究者と比較しながら研究を続けていくことに疲れてしまい、就職を視野に入れ始めていました。就職活動では、これまで研究をしてきた経験を生かして、研究支援関連の仕事に就こうと考えました。実際に内定を得たので、博士課程からの研究をまとめて論文にし、研究生活を終えようと思っていました。
*日本学術振興会特別研究員PD、DC1、DC2・・・優れた若手研究者に対して生活費、研究費などの面で研究者の養成・確保を図る制度。DC1、DC2は博士課程の学生向け、PDは博士取得後の研究員向けの制度。
-やっぱり研究を続けたい!
ところが内定を得た後も、野村先生は研究を続けたいという思いを捨てきれていませんでした。一般的に、博士課程を修了して研究を続ける場合は、大学や国立天文台のような研究機関に雇われる形で研究を続けます(通称ポスドク)。もちろん、研究機関と契約が切れるたびに、新しい雇用先を探す生活は容易ではありません。しかし、内定を得ていた仕事も、多少待遇は良かったものの任期制でした。
そのため、条件を比べた時に「これなら好きな研究を続けていた方が良いのでは?」と考え始めます。
-再び研究の道に
そして、年度が始まる直前に筑波大学で研究員として採用され、研究を続ける道を選びました。
再び新しい環境で研究を始めましたが、筑波大学では1年契約だったため、落ち着いている間もなく、来年のことを考える必要があリました。
筑波大学の後は、慶應義塾大学、東北大学の研究室で研究を続けました。また、多くの研究機関に応募するも採用されず、ギリギリのタイミングで採用されることもあったそうです。ただ、一度就職活動を経験して内定をもらった経験もあったので、「いざとなったら就職すればいい」という考えになっていたこともあり、このような研究員としてのキャリアに慣れつつありました。
教員として伝えたい、好きなことを研究することの大切さ
-ポスドク生活を経て高専の教員に
東北大学で研究員をしていた1年目に、広島県にある呉工業高等専門学校(呉高専)に教員として採用されます。この職は契約期間の制約がない雇用形態でした。翌年からは呉高専で授業を担当しながら研究を続けていくことになります。
これまで大学の授業の補助は経験していましたが、教壇に立って授業を行うのは初めてのことでした。教える科目は数学で、直接的に宇宙関連のことに関係はありませんでした。ただ、工学での「工業のために数学を道具として扱う」という姿勢は、宇宙を解き明かすために数学を使う感覚に近い部分がありました。そのため、モチベーションが共通することもあり、教育者としても良い経験となったそうです。
一方で、多くの授業をこなしながら合間の時間で研究を進めて、学生時代に比べると一定のペースで論文を出せるようになってきていました。また、コロナ禍によってオンラインでの学会が増えたことで、研究成果を発表する機会も得やすかったといいます。
-そして、弘前大学へ
呉高専で教員を4年続けた後に、2023年に弘前大学で助教として採用されました。大学での教員職に就くことで研究により多くの時間を割くことができるほか、学会への参加もしやすくなるメリットがありました。また、自分の専門分野により近い教育を行いたいという思いもありました。
後期からは授業だけでなく、ゼミ形式で宇宙に関する専門的な勉強も始まります。そして、来年度以降に卒業研究を指導する学生が、その後の進路に関わらず、研究を良い経験として感じてもらえるように教育活動も行っていきたいと考えているそうです。
大学時代には積極的に飛び級をし、大学院に進学して研究の世界に足を踏み入れました。ところが、学生時代は結果を出す周りと比較してしまい、苦しい思いをしながら研究者の道を歩んできました。それでも宇宙への興味、研究への熱意を失わず、学生たちにも好きなことを研究することを経験して欲しいという思いを持ちながら、野村先生は現在も研究を続けています。
Question野村先生に聞いてみました!
研究者に質問コーナー
― 学生時代にしておけば良かったことはありますか?
もっと勉強はしておけばよかったというのはもちろんあります。研究をしていて、必要になった時にいまさらこれを勉強するのか、、って思うときは正直あります。
他にも、運動をしておけば良かったと思います。研究は体力勝負みたいな面もあるので。
また、飛び級をして大学院に入ったことは大変だった面ももちろんありましたが、大学院に1年早く入って必死に研究をしていなかったら、どこかに余裕ができて就職していたかもしれないですね。
― 研究関連で海外に行った経験はありますか?
学会発表でイタリア、アメリカ、中国、韓国などに行くことはありました。また、ポスドクで海外に行く経験をしたかったなとは思っています。
― 指導教員の方から影響を受けたことについて教えてください。
森川先生(お茶の水女子大学の時の指導教員)とは、少し違う分野の研究テーマを選んでしまいましたが、その後も広い視点からアドバイスをくださいました。特に、研究に向き合う姿勢という面で影響を受けました。
また、大学院以降で指導を受けた大須賀先生は現在も共同で研究をしています。研究以外でも進路についてなどさまざまな面でお世話になったと感じています。
― 研究者以外なら何になりたかったですか?
就職を考えていた研究支援の仕事や、科学に関する一般向けの本を作る出版関連などに興味がありました。
― 一番上手く行ったと思える研究成果が出たときはいつですか?
学生時代の最後に研究していた2本目の論文です。国内外の多くの研究者が注目していた現象について結果を出せたことが嬉しかったです。
― 研究者を目指す人へのアドバイスをお願いします。
結果を出している人を見て落ち込みすぎないこと。例えば、学術振興会の特別研究員の合否などに過剰に一喜一憂せず、自分の研究をしっかり進めていくことの方が大切だと思います。
取材した山本さんからひと言!
研究分野にもよりますが、「研究をしたい」という気持ちを高校生ごろから持っても、研究職に就くことや直接関われる仕事に就ける人は少数派です。ですので、研究を続けたい気持ちがあっても見切りをつけて就職する人は多いです。今回のインタビューで、多くの研究員の方が契約制の研究員をいつまで続けるかわからない状況でも、研究に挑み続ける勇気と努力をしてきたことを実感しました。
また、僕を含む多くの大学院生が同い年の優秀な学生と比較して落ち込むことはよくあるかと思います。そんな中、経験を積んだ野村先生から「自分の目の前の研究に向き合うことが大切」と助言され、とても元気が出ました。