ことばの歴史的変遷や、その背景にある文化や社会事情などを含めて解明する研究に取り組んでいる弘前大学教育学部の郡千寿子教授。研究者、教育者としてはもちろんのこと、2016年には、弘前大学初の女性理事・副学長に就任し、大学の運営においても幅広く活躍しています。
郡千寿子教授に、研究の面白さ、弘前大学の魅力についてお話を伺いました。

ことばの変遷の面白さに惹かれて

― 先生の研究テーマと、その分野に興味をもったきっかけについて教えてください。

研究テーマは日本語学です。ことばの歴史的変遷や、その背景にある文化や社会事情などを含めて解明する語誌研究に取り組んでいます。
この分野に興味を持ったのは、大学での授業がきっかけでした。もともと法学部や経済学部を志望していたこともあり、大学入学当初は、正直言って文学部での学びにあまり意欲的ではなかったんです(笑)。ところが、国語史の先生の授業が面白くて日本語の歴史に興味を持つようになりました。
国文学の授業で井原西鶴の『好色五人女』を読んでいて、そのなかに「()り手」ということばが出てきました。現代では、物事をうまく処理し、バリバリと仕事をこなす能力のある人などに用いられることばです。しかし、江戸時代は、遊郭で客と遊女を取り持ったり、遊女を監督差配する女性の職業を指すことばだと知り、驚きました。昔とは全く意味を変えて、現代に溶け込んでいることばの不思議。「ことばって、面白い!」と感じ、その変遷をもっと知りたくて夢中で勉強するようになりました。

国語史の先生は、評価が厳しいことでも有名でしたが、その先生にレポートをほめられ、試験で1人だけ満点を取ったこともありました。先生のご助言もあって大学院に進学し、卒業後は、国文学者として著名な島津忠夫先生(大阪大学名誉教授・故人)の指導のもとで研究に取り組みました。

島津先生は、「この研究においては誰にも負けないと言えるような分野を持ちなさい。もし、国語学を本気で学びたいなら、先生を紹介しますよ」と、語彙研究の大家である、前田富祺(とみよし)先生(大阪大学名誉教授)を紹介してくださいました。大阪大学の前田研究室に通って、『日本国語大辞典1~13巻』の編集と項目執筆に携わることができたのは貴重な経験です。

庶民の教科書「往来物(おうらいもの)」の研究にも着手

― 弘前にいらしてから、新たに取り組んでいる研究もあるそうですね。

関西の複数の大学で講師を務めた後、1999年、弘前大学教育学部に公募で採用されました。それまでは、鎌倉室町時代の「抄物(しょうもの)」(講義記録)研究を行っていましたが、弘前に来て新たに取り組んだのは、「往来物」と呼ばれる出版物の研究です。往来物は、平安後期から明治初期にかけて、読み書きや算用など庶民の教育資料として用いられてきた教科書のようなものです。
全国的にも研究者がほとんどおらず、資料の発掘や調査分類の基盤整備ができていないのが現状です。先行研究がない領域だけに調査研究は大変ですが、往来物は日本社会の近代化に関わる重要な資料群です。地域社会における言語生活の反映や文化形成において果たした役割などを解明する手がかりになると考えています。現在、科研費に採択いただき、その助成で研究を続行中です。

江戸時代から、庶民の教育レベルが高かった弘前

― 研究を通じて、弘前の地域性や土地柄についてわかったことはありますか?

弘前は、かつて弘前藩の稽古館など藩校もあり、庶民教育もさかんだった土地柄です。第二次世界大戦中に戦火を逃れたこともあって、個人宅の蔵などから当時の資料が出てくることも多いようです。私は、弘前市立図書館所蔵の往来物資料をすべて調査し、分類整理を行いました。

江戸時代の往来物は、京都・大坂・江戸の三都で出版されたものが中心ですが、江戸後期になると地方でも出版されるようになります。教育学者の石川松太郎氏の研究によると、当時、弘前には4軒もの書肆(しょし)(書物を出版したり、売ったりする店)があったことがわかっています。秋田・山形・福岡・鹿児島では各1軒だったのに対し、弘前では複数の出版元で作られた往来物が流通し、それを使って庶民教育が行われていたようです。弘前は、江戸時代においてすでに出版先進地であり、そうした出版事業は情報や文化の発信だけではなく、庶民層への教育力向上にも大きく貢献していたと思われます。弘前は、江戸時代から非常に教育レベルの高い土地柄だったことがうかがえるのではないでしょうか。

インタビューの様子

モノや人だけではなく、文化や言葉も運んだ北前船

動物の鳴き声を表す擬声表現も、歴史とともに変わってきました。たとえば、今では、スズメの鳴き声は共通語で「チュンチュン」と表現されます。鎌倉時代の辞書『名語記(みょうごき)』では「しうしう」、江戸時代の俳諧書『風俗(ふうぞく)文選(もんせん)』では「ちいちい」と表記されています。
また地域によっても表現が異なります。1955年に国立国語研究所が行った方言調査によると、関東、中部、四国、九州ではスズメの鳴き声は「チューチュー」で、「チュンチュン」と表現するのは近畿を中心とした地域だけです。ところが青森・秋田には関西系「チュンチュン」が飛び火して存在しています。今のようにテレビや電話がない時代、ことばは地域から地域へどのように伝わっていったのでしょう。青森・秋田の「チュンチュン」は北前船による海域交流によって関西からダイレクトに東北に伝播したのではないか。
ことばの研究は、関西と関東と陸地レベルで東西の分岐で考えることが多いのですが、日本海域交流の影響がどうであったのか。青森でも日本海側と太平洋側では文化も風土も違う。弘前を皮切りに、東北から北陸、そして山陰へと調査エリアを広げ、江戸時代の文献資料を利用して、日本海域交流における言語成立の影響関係を調査研究中です。

青森の風土が育んだ作家たちをテーマにした三部作

― 弘前大学の先生たちと協力して、弘前大学出版会から本も出版されたそうですね。

弘前大学に赴任し、地域の資料研究を続けるなかで、青森出身の作家にも興味を抱くようになりました。弘前大学の研究者らと協力しながら、これまで弘前大学出版会から『太宰へのまなざし』、『寺山修司という疑問符』、『青森の文学世界』の三部作を刊行しました。

私は、『太宰へのまなざし』のなかで、太宰作品156作品すべての色彩表現を調査しました。太宰を色彩という観点から統計的に分析する試みです。太宰が最も多く使用した色彩は「白」で次は「赤」でした。また色彩語が最も多く使われた作品が『津軽』ということも判明。小説『津軽』では、「青」や「緑」の使用頻度が高く、作品を象徴する色彩といえそうです。心理学分野の研究成果と合わせて検討することで、太宰が「郷愁」や「孤独」という無意識下の感情を作品に投影させていた可能性も色彩語使用から見えてきました。
日本語学は、言語科学の一領域であり、データを用いて論証することも多い。文化や社会的観点からの考察ももちろんありますし、言語研究のアプローチ法はさまざまでそこが面白いと感じています。

共感力やコミュニケーション能力、想像力や創造力を育む言語研究

― 取り組まれている研究が、今後、どのように地域や社会へ影響すると思われますか?

AIの時代、人間にしかない能力、たとえば共感力やコミュニケーション能力、想像力や創造力の育成がより重要になると思います。言語研究や文学研究は、それを支える基盤です。ことばは社会とともにあり、私の日本語の歴史研究は、過去を知り未来を見すえることにつながるものだと思っています。ですので、決して過去の文化遺産でなく、現代をどう生きるべきか、今後の日本や日本語がどうなっていくか、どうあるべきか、を考えるために必要な研究であり、検討材料になり得ると考えています。
人文社会学や芸術、哲学は、一見利益がないような研究分野ですが、人がいかに生きるかの根源的な問いと魂の救済に影響を及ぼし、感受性や想像力を養うためにも必要不可欠だと思っています。

学生がみずから考え、自発的に行動する力を養うために

― 学生に指導するうえで、大切にされていることはありますか?

私には、人として教育者として研究者として、恩師という憧れの存在があります。大学入学当初は意欲的ではなかった私のような学生でも、興味や関心を引く授業を受けることによって、学問の面白さにめざめることもある…。先生のお声がけひとつで、人生が大きく変わることもある…。そんな自分自身の実体験をふまえて、学生たちと向き合ってきました。

学生からの問いに対して、安易に答えだけを与えてしまうのではなく、本人の能力が発揮できるような環境を整え、みずから考え、自発的に行動する力を養うことに力を注いできました。たとえ時間がかかっても、自分で答えを見つけさせる。自分で発見したという喜びを味わえる教育を大切にしてきました。

教師になったある卒業生から、「先生、あの時、ぼくが気づくまでよく待ってくれましたね。今になってその意味がわかります」と、言われたことがあります。「自分の思いが、ちゃんと学生に伝わっていたんだ…」と実感できうれしかったです。

夏には恒例のゼミ合宿を行い、研究発表や議論しあう場を設けました。社会人となった先輩たちもゼミに合流し、助言者として活躍してくれたおかげで、現役学生が将来像を考える機会にもなりました。歴代のゼミ生たちは、みな教員採用試験に合格し、全国各地で教員として活躍しています。学生同士が切磋琢磨しながら、みんなで頑張ろうと思えるような雰囲気作りを重視し、それが結果的に全体のレベルアップにつながったと感じています。彼らが社会でがんばっていることが私自身の励みであり、誇りでもあります。

― 先生は、ご自宅にゼミ生や海外からいらした先生方をお招きすることもあったそうですね。

2016年に理事・副学長に就任して以来、残念ながらゼミは持っていませんが、歴代のゼミ生たちを我が家に呼んですき焼きパーティーをしたり、みんなで楽しく夢を語り合ったことは今でも忘れられません。

これまで、弘前大学に訪問した外国人研究者も、よく我が家にお招きしました。特別な料理は作れませんが、皆さん、日本の家庭でごく普通に食べている料理やお菓子などを大変喜んでくださいました。

元弘前大学人文学部教員のドイツ人ヘフケン先生ご夫妻を自宅にお招きした
元弘前大学人文学部教員のドイツ人ヘフケン先生ご夫妻を自宅にお招きしてお茶をしているところ。里帰り中の娘も一緒に。アップルパイは焼きたての自家製。(2020年9月)

海外で開催される国際学会などで当時の先生方にお会いすると、「郡先生、あの時は本当に楽しかった!」と、お声をかけてくだいます。彼らが弘前大学で過ごした思い出のなかに、そうした交流のシーンがあることがうれしいです。

ロンドンで文献を調査研究
ロンドンで文献を調査研究。(2013年)
国際学会で基調講演・座長を務める
国際学会で基調講演・座長を務めることも。(2019年)

地域を探究し、自分が学びたいことを見つける手掛かりに。

― 弘前大学が2021年4月に設立した太宰治記念「津軽賞」について教えてください。

青森には、優れた作家や芸術家がたくさんおり、作家・太宰治もその一人です。弘前大学の前身の一つである旧制官立弘前高等学校で学んだ太宰治は、故郷・家族・社会・芸術などに向けた豊かな感受性をもって作品を発表してきました。
弘前大学は、2021年4月に太宰治記念「津軽賞」を設立し、2022年度~全国の高校生を対象にした、地域論文コンテストを実施する予定です。みずから地域を探究することを通じて、高校生の皆さんに自分が学びたいことに気づいてもらうことを目的に実施するものです。地域への視点・地域からの視点を盛り込んだ人物・自然・産業・教育・医療などに関するオリジナリティあふれる意欲的な小論文を求めています。詳細は2022年1月ころ公表予定ですので、ぜひ、多くの高校生の応募をお待ちしています。

国籍も研究分野もバリエーション豊かな総合大学。多様な学びができる環境

― 弘前大学の魅力と、弘前の街の魅力は?

弘前大学は、総合大学であり、あらゆる分野の研究者がいます。教員も日本に限らず、ドイツやアメリカ、中国、韓国籍の先生もおり、多様性のなかで教育を受けられるのが魅力です。私は、大学院や学界では同じ学問分野の仲間との切磋琢磨によって成長させてもらいましたが、弘前大学に就任後は、異分野の先生方との交流で視野も社会も拡がり、それによって研究にも大いに刺激を与えてもらいました。

弘前の街の雰囲気も素晴らしく、文化、歴史、自然が豊かで、学ぶのにふさわしい環境です。豪雪地帯で冬の環境は厳しいですが、逆境を乗り越えようとする地域性、粘り強さや忍耐力があると思います。旧制高校があった土地柄もあり、街の人々も学生や大学に理解があり、とても温かいと感じています。

― 弘前大学を目指す高校生や、在学生へのメッセージを!

私の分野は古い文献資料を扱う、古くさい文系のイメージかもしれませんが、パソコンでのデータ処理やグラフや表の作成、画像処理の技術や知識も必要になります。地理や歴史、文化財の知識はもちろんのこと、江戸時代の医学書や算術資料を研究するためには、医学や数学の分野についても知っていなければ解読できません。

最先端の研究には文系や理系の概念はないので、理系とか文系とか枠組みにこだわらず、あらゆる分野に興味関心をもってほしいと思います。
学べば学ぶほど、謎が謎をよび、面白くて探求心は尽きることがありません。学びは受験のためではなく、自分を向上させ良い人生を歩むためのものです。弘前大学には、個性豊かな教員と仲間がいっぱいいます。ぜひ、一緒に学ぶ楽しさを体感しましょう!

Questionもっと知りたい!郡センセイのこと!

― ご趣味は?

管理職になる前は、視野と見聞を広めるため、プライベートで娘と一緒によく海外へ旅に出かけました。美術館が好きで、当地の文化や芸術にふれながら、今までにスイス、ドイツ、ニューヨーク、パリ、ロンドン、イタリア、タイ、台湾、韓国、中国など各地を訪問しました。

タイにて
イタリア ミラノにて、サンタ・マリア・デッレ・グラツイエ教会「最後の晩餐」鑑賞

― 休日の過ごし方は?

休日は家で論文や原稿を書いたり、家事をして過ごしています。私の母が料理好きで、毎日、手作りの料理を季節に合わせた器にきれいに盛りつけてくれました。そんな母の背中を見て育ったせいか、一人で食事をする時でも手を抜かずに準備しています。毎日、気持ち良く一日を始めるために朝食はきちんととるようにしており、お昼はお弁当持参派。娘が小さかった頃は、よくケーキも焼いていました。

お弁当
ある日のお弁当
朝食
朝食

Profile

教育学部 学校教育教員養成課程 国語教育講座 教授/弘前大学理事
郡 千寿子(こおり ちずこ)

奈良県奈良市生まれ 。
弘前大学の教授/理事の他、全国大学国語国文学会役員としての学会運営、青森県NIE推進協議会会長、弘前市れんが倉庫美術館運営審議会委員など地域の文化教育活動にも従事している。
40年ぶりに改定された日本最大の国語辞書「日本国語大辞典全13巻」の語誌編集部会へ参加。「日本語大辞典」「文章・文体・表現事典」等の辞書執筆も担当。
編著者としてまとめた「青森の文学世界 <北の文脈>を読み直す」が、2021年の弘前大学出版会賞を受賞した。
東奥日報社 文化欄「コオリ先生のことば探求紀行」(2021年9月から連載中。全24回予定。)では、言語研究の面白さや地域研究についてわかりやすく発信している。