予期せぬ事故や、命に関わる突然の病気。そんな一刻を争う重症の患者さんを24時間体制で受け入れ、救急医療を提供している弘前大学医学部附属病院「高度救命救急センター」。救急車やドクターヘリで搬送された患者さんの診療を行うとともに、災害発生時は、「災害派遣医療チーム」(DMAT)を編成し、派遣先で災害医療に取り組んでいます。
同センターの伊藤勝博副センター長は、青森県で最初の「青森県災害医療コーディネーター」に委嘱されたほか、厚生労働省の日本DMAT隊員、統括DMATの資格を持ち、これまで多くの災害現場で活動してきました。日頃の救急医療、また、災害医療の活動についてお話を伺いました。

24時間体制で取り組む救命医療

― 「高度救命救急センター」では、どんな診療を行っていますか?
また、「救命救急センター」との違いについても教えてください。

命に関わる病気や外傷などの重傷の患者さんに、24時間体制で高度な医療を提供するのが「救命救急センター」です。青森県内では、青森県立中央病院と八戸市立市民病院が指定されています。
「高度救命救急センター」は、こうした「救命救急センター」の機能に加え、重症全身熱傷、指の切断の再接着手術、急性重症中毒なども常に受け入れられる機関で、青森県では唯一の機関です。また、施設の地下には被ばくされた方々を受け入れるための専用の設備があり、「緊急被ばく医療」の体制整備も進めています。

― 弘前大学医学部附属病院には、ドクターヘリのヘリポートがあるそうですね。

病院の外来棟屋上には、融雪・照明装置付きのヘリポートを設置しています。県内全域と、時には秋田県からドクターヘリで搬送された患者さんを受け入れています。
青森県内では、ドクターヘリが2機運航しており、青森県立中央病院と八戸市立市民病院が基地病院に指定されています。当院は、青森県立中央病院と協力関係にあるため、週の半分は私を含む高度救命救急センターの医師が青森県立中央病院でフライトドクターを務めています。
ドクターヘリやドクターカーなどによる現場の診療は、病院での診療とは条件が大きく異なります。医療機器、薬剤、医療スタッフなどが限られるなか、いかに適切な判断を下し、病院前診療を行うことができるか。一番大切なのは、冷静さだと思います。

災害医療の体制整備の必要性を痛感したできごと

― 先生が、救急・災害医療の道に進もうと思われたのはなぜですか?

弘前大学医学部在学中から、将来は救急医療に関わりたいと思っていました。日常のなかで大きなアクシデントが起こるのは、本人にとっても家族にとっても大変なこと。そこに介入できるのが、救急医療のやりがいだと思ったからです。なかでも、災害は、本人に全く過失がないにも関わらず、ある日突然見舞われ命の危険にさらされます。そうした方たちを一人でも多く助けたいと思い、救命医療・災害医療に興味を持ちました。

しかし、私が大学を卒業した年には、まだ弘大には救急・災害医学講座がありませんでした。それで、救急に一番近い外科系の脳神経外科を選び、県内のいくつかの病院に勤務していました。
2008年1月4日青森市民病院に勤務していた際に、忘れられない事故が発生しました。青森市雲谷地区で観光ツアー客35名を乗せた大型バスがガードレールを突き破り、5メートル下の沢に転落。通りかかった自衛隊のバスが救助にあたり、23名の負傷者が青森市民病院に搬送されてきました。当時はまだ院内に災害医療体制がなかったため、私と同僚の脳神経外科医、研修医の3人で初期診療を行いました。これを機に、青森県の災害医療の体制整備の必要性を痛感しました。2010年、弘前大学に「高度救命救急センター」が設置されたのに伴い、同センターに勤務し、学生の頃からの夢だった救急・災害医療に取り組んでいます。

高度救命救急センター 伊藤 勝博 副センター長

「避けられた災害死」をなくしたい!
阪神淡路大震災を教訓に生まれた災害派遣医療チーム「DMAT」

― DMATとはどんなチームですか?どんな活動をするのですか?

DMAT(Disaster Medical Assistance Team)とは、大規模災害や多数傷病者が発生した事故現場などで、急性期に活動する、専門的な訓練を受けた災害派遣医療チームです。1995年、阪神淡路大震災が発生し、多くの犠牲者が出ました。当時はまだ初期医療体制が整備されておらず、「避けられた災害死」が大きな問題になりました。そうした教訓を生かして2005年、厚生労働省により発足されたのがDMATです。災害発生時、要請があれば、医師、看護師、業務調整員の計4~5人で1チームを編成し、現地に向かいます。
現在、当病院には、私を含め医師10名、看護師13名、業務調整員(医師、看護師以外の医療職及び事務職員)6名、計29名のDMAT隊員がいます。

医師という仕事の使命感を感じた東日本大震災

― これまでのDMATの活動のなかで印象に残っていることはありますか?

今でも忘れられないのは、やはり東日本大震災です。岩手県宮古市重茂半島にある千鶏地区が、津波の襲撃によって孤立状態に陥りました。「医療者がおらず、けが人を運び出すことができない」。要請を受けた私たちは、海上自衛隊のヘリに搭乗し現地に向かいました。一緒に行った医師(現在の救急・災害医学講座の花田教授)は、現地の惨状を目のあたりにし、「よし!ここの半島の住民全員を必ず助けるぞ!!」と。チームの仲間のアツさが伝わってきて、無我夢中で診療を行いました。

私たちは、災害現場で医療者であることが一目でわかるように、背中に「DMAT」の文字が明記された制服を着用しています。千鶏地区を去る際に、私たちがヘリを待っていると、住民の方々が駆け寄ってきて、「先生…、助けに来てくださってありがとうございました…」と。その言葉を聞きながら、目の前にある命を救う医師という仕事の使命感を強く感じました。

東日本大震災 岩手県宮古市に派遣
東日本大震災が発生し、岩手県宮古市に派遣された時の様子。奥に写っているのは千鶏地区へ移動した海上自衛隊のヘリ

東京電力福島第一原発の事故を機に、私は、被ばく医療にも関わることになりました。事故直後は、原子炉の調整のために施設内で4000~5000人が作業をしていましたが、救急車も入ることができず、既存の医務室だけでは対応できない状況でした。そのため、施設内にあらたに救命救急室を設けることになり、私も2カ月に1度、防護服を着て診療にあたりました。病人やけが人が発生すると処置をして、施設の救急車に患者さんを乗せて消防の救急車が立ち入ることができる場所まで運びました。弘前大学では事故直後から現在に至るまで、福島県への様々な医療支援を行っています。

各関係機関と連携し、限りある医療資源を最大に生かす災害医療コーディネーター

― 先生は、青森県災害医療コーディネーターに委嘱されているほか、統括DMATの資格もお持ちだそうですね。

大規模災害が発生すると、現地の医療機関も混乱をきたします。その混乱を最小限に抑え、適切な医療ができるように、関係機関と連携し調整業務を行うことと、現在様々に存在する災害派遣チームの活動調整を行うのが、「災害医療コーディネーター」です。青森県内で青森県災害医療コーディネーターを最初に委嘱した3名の一人です。また、統括DMATの資格も取得し、DMAT登録者への訓練や研修を行うとともに、災害時には、DMAT本部の責任者としても活動しています。

2018年、北海道胆振東部地震が発生した際は、DMATとして青森県庁に出動。庁内に青森県本部を設営し、災害チームの活動支援・調整などを行いました。地震発生後、海をはさんだ隣県である青森県には、各地からDMAT隊(23隊・29車両)が続々と集まってきました。北海道に移動するためには、唯一の輸送手段であるフェリーの調整が必要です。私たちは、災害時の医療情報をインターネット上で共有し、被災地の医療情報を集約して提供するシステム「EMIS」を活用し、情報拠点としての役割を担いました。

青森県内のDMATは、日頃、県や市の防災訓練のほか、東北エリアのDMATと合同で研修・訓練を行っています。北海道胆振東部地震が起こる前に北海道エリアのDMATと訓練を行っており、北海道の病院体制をある程度把握していたこと、北海道エリアのDMAT隊員と面識があったことが災害時におおいに役立ちました。平時から、各地のDMATが交流を図ったり、消防、警察、自衛隊など他の機関と連携を深めることが大事だと感じました。切れ目や絶え間なく、医療を提供できることが何よりも大切です。

北海道胆振東部地震が発生した際の「青森県 DMAT調整本部」
2018年、北海道胆振東部地震が発生した際は、「青森県 DMAT調整本部」を設営。災害チームの輸送の調整・活動支援など、海をはさんだ隣県の情報拠点としての役割も担いました。

今後、ますます重要になってくる救急・災害医療

― これからの災害医療を考えた時に、どんなことが必要だと思われますか?

アメリカでは、全医療者が災害医療を学ぶべきだと言われています。もちろん、災害現場に行くのは、専門知識と経験がある人でないと難しいかもしれませんが、病院で傷病者を受け入れる医療者も非常に重要です。災害医療は、全医療者が協力しないと成り立たないと思うので、今後は、病院組織全体で災害医療に対する意識を高めていく必要があると感じています。

― 災害発生時、一般の人には何ができるでしょうか?

医学科・保健学科の学生たちには、「医者・看護師になったら“一人でも多くの人”を助けろ。医者・看護師になる前は、“一人の人”を励まし続けろ」と言っています。災害発生時、“一人でも多くの人”を助けるのが我々の目的です。しかし、症状が重い人を優先せざるを得ない災害現場では、症状が軽い人はその場に待機させられることもあります。また、助かる見込みが少ない人は一番最後に運ばれる現実もあります。そうした人たちをケアするのは、我々だけでは困難です。ですから、皆さんが、もしそういう場面に遭遇した時は、一生懸命励ましたり話し相手になったりして本人やご家族に寄り添ってあげてほしいと思います。

― 最後に、将来、救急医療・災害医療の道に進んでみたいと思っている高校生にメッセージをお願いします。

生命の危機に瀕している重症傷病者を、最初に診療するのが救急医。この診療が救命の鍵となります。病院に搬送された方、災害現場で苦しんでいる方、一人ひとりの患者さんを治療して元気になってもらう。この仕事の喜びは、それに尽きると思います。決して楽な仕事ではありません。辛いことも、根性が必要なこともあります。それだけに、救急・災害医療の仕事はやりがいが大きいと思います。
救急医療の現場は、多忙でなかなか休みが取れないというイメージがあるかもしれません。しかし、勤務体制によっては、計画通り休むことができ、家庭や育児と仕事の両立もしやすい現場です。ぜひ、多くの方に救急・災害医療について学んでほしいと思います。

Questionもっと知りたい!伊藤センセイのこと!

青森高校時代にハンドボールを始め、弘前大学でもハンドボール部に所属。1年生の秋に行われた東北地区のリーグ戦では、個人賞を受賞しました。全学部共通の部活なので、各学部に友達ができ、練習が終われば西弘で飲み会、春と秋の大会はドライブ旅行のようで、とにかく楽しかったです! 6年生になると、さすがに参加できませんでしたが、5年生までは参加していたので、長老扱いでした(笑)。

ハンドボール部

Profile

高度救命救急センター 副センター長
伊藤 勝博(いとう かつひろ)

青森県青森市生まれ 。
弘前大学医学部卒業後、県内のいくつかの病院で脳神経外科医として勤務。2010年、弘前大学に高度救命救急センターが設置されたのに伴い、同センターに勤務。青森県災害医療コーディネーター、統括DMAT、原子力災害医療派遣チームとして、災害現場での医療に携わるほか、チームの支援・調整や、DMAT登録者への訓練や研修なども行っている。
脳神経外科専門医、救急科専門医、社会医学系(災害医療)専門医を有し、JATECインストラクター、JPTECインストラクター、ISLS / PSLSコーディネーター、PNLSインストラクター、MCLSインストラクター、Emergo Train Systemシニアインストラクターの資格も保有している。