全身麻酔を伴う手術をきっかけに、患者さんが一時的な興奮状態になったり記憶障害などにさいなまれる「術後せん妄」。患者さんの年齢や病歴、手術中に受ける刺激など、さまざまな要因が絡み合って発症すると言われています。木下裕貴先生は、人工知能活用による術後せん妄の予測や介入の研究を行っており、これによって手術の前段階でせん妄リスクが高い患者さんを把握できるようになりました。医療とデータサイエンスを組み合わせた発症予測システムにより、患者さんの術後の健康はもちろん、高齢化社会における医療体制の安定化や医療格差の是正までも展望しています。

人工知能を活用して術後せん妄を予測

医学部附属病院 集中治療部
木下 裕貴(きのした ひろたか)助教

リスクを数値化、手術前の準備で術後せん妄を抑える

術後せん妄は、手術のカテゴリーにもよりますが、リスクの高い分野であれば4人に1人程度の割合で発症します。症状は一時的なもので、ある程度は回復するのですが、患者さんによっては認知機能が戻らず、そのまま認知症になってしまうケースもあります。

術後せん妄の症状
術後せん妄の症状

弘前大学医学部附属病院集中治療部で働いていて、ここ数年術後せん妄を発症する患者さんが減っている印象があります。高齢化が進み、国の方でも対策を講じていますが、それだけではなく当院の医療スタッフが経験や学習を重ねた結果、患者さんを見て発症しやすいかどうかの見当がつくようになり、先回りの処置ができるようになったためでしょう。ただ「経験のあるスタッフだけが分かっている」だけではなく、しっかりとリスクの根拠を言語化、数値化することで経験の浅いスタッフでもわかる予測モデルを作りたかった。それがAIの1つである機械学習を用いた本研究です。

当病院での1101人分の臨床データを機械学習させて予測モデルを作りました。取り込んだデータは年齢や性別、生活習慣、既往歴、手術時間、術中の出血量や輸血量など161項目。患者さんの情報を入力すると、これまでのデータをもとに予測される発症リスクをパーセンテージで表示します。
以前の私達の研究で、術後せん妄になった患者さんは脳波におけるα波という周波数帯域が麻酔開始の時点ですでに低いということがわかりました。つまり、術後せん妄は手術中の要因よりも患者さん自身の要因によるところが大きく、手術前の準備によってリスクは下げられます。術前のプレハビリテーションにより患者さんの予備機能を前もって高めるなど、早い段階での予測と介入が非常に重要です。

術後せん妄と術中脳波の関連

術後せん妄患者の術中α帯域パワー相対比が有意に低値
α帯域パワー相対比が低いほど術後せん妄の発症率が高い

予測モデルは医療全体を助ける

どの患者さんを綿密にケアすべきかがわかれば、医療スタッフの目が離れたすきに患者さんが点滴を抜いたり、ベッドから転倒していたりという事象を減らすことができるかもしれません。術後せん妄による興奮や不穏行動は深夜帯に現れることが多いですが、日中よりも少ない数の医療スタッフで対応することがほとんど。これは本当に緊急事態に陥っている他の患者さんへのケアが遅れる可能性が増えることを意味します。術後せん妄のリスクの高い患者さんの発症を予防することは、その患者さん本人だけでなく、間接的に他の患者さんの安全性を高めることにつながります。

本研究の予測モデルを活用し、当病院の集中治療部では2024年6月から、術後せん妄のリスクを知らせるアラートシステムを始めました。システムを導入したことで、患者さんに携わるすべての医療スタッフがリスクを把握できるようになり、医療スタッフの意識が高まることに期待しています。術後せん妄の予防や治療には特効薬や明確な治療法は存在しません。さまざまな職種のスタッフが連携して取り組み、リスクを回避し患者さんにストレスがかからない環境づくりをしていくことが非常に重要です。アラートシステムにより、良い効果が出ていると手ごたえを得ています。

術後せん妄アラートシステム
術後せん妄アラートシステム

社会の高齢化に伴って手術を受ける患者さんの高齢化もどんどん進んでおり、術後せん妄の発症リスクも全体的に高くなる傾向です。術後せん妄は患者さんの健康度を下げ、入院日数の延長による医療費の増大などにも関連します。青森県は高齢化率が全国トップクラスの地域であり、こうした課題にすでに直面しています。予測モデルはどの病院でもとれるデータを使っており、今後は県内の自治体病院などでも使えるモデルを作成したいと取り組んでいます。高い精度のせん妄予測と早期の予防介入が実現できれば医療格差が是正され、患者さんの安全性だけではなく、医療者のマンパワーをはじめとする医療資源のロスも抑えられるでしょう。

全国の病院でも使えるような汎用性の高いモデルの確立が目標です。医療データはレセプト(診療報酬明細)以外には統一されておらず、そもそもデータを集めるのが非常に大変でデータベース化が難しく、サンプルデータが100万~1000万単位にもなる規模でも通用するかどうか、県民性や当地ごとの医療体制の違いなど課題は多いです。まずは弘前市、青森県からやっていければいいなと。この研究は高齢化率が高い青森県の弘前大学だからこそ発信できるものだと思っています。

麻酔科関連の学会で術後せん妄に関する講演を行う木下先生
麻酔科関連の学会で術後せん妄に関する講演を行う木下先生

手術室を飛び越えた麻酔科医に

麻酔科医は、死の淵にある患者さんを救う手術から、新しい生命の誕生に立ち会う手術まで、広く携われる面白さがあります。多職種の医療スタッフをつなぐ役割を担っており、麻酔にはあらゆる技術や知識を駆使します。
当病院麻酔科で麻酔科医としてのキャリアを始めた際、当時の同科教授・廣田和美先生(現青森県立中央病院院長)から術後せん妄の研究をやってみないかと誘っていただきました。実際に私の周りでも手術を終えて退院した際に物忘れがひどくなったり性格が変わってくる方がいて、ショックを受けた経験があります。そうしたことに介入できるのであれば社会の役に立てると考えました。

廣田先生(左)と木下先生:2024年度日本麻酔科学会若手奨励賞受賞時
廣田先生(左)と木下先生:2024年度日本麻酔科学会若手奨励賞受賞時

麻酔科医としての職務の多くは手術室の中で果たされますが、廣田先生は「次世代の麻酔科医は手術室を飛び越えていくんだ!」とおっしゃっていました。本研究は、そのはしりになると感じています。術後せん妄の大きな要因に術前の脳の脆弱性があることがわかりましたので、例えば脳を鍛えて元気でいるためのアプリ開発なども研究領域に入ってくるかもしれません。健康なうちから病気になったときの備えをし、大きな手術を受けたとしても元気に自宅へ帰っていただく、というのが私達の目標です。

木下先生 講座の看板 横

この研究に興味がある方へ、木下先生からメッセージ

「研究のための研究」ではなく、患者さんに直接還元できるような研究が当病院の麻酔科ではできると思っています。研究を進めていくのは、やり抜くという強い「気持ち」です。そして、患者さんや医療スタッフをはじめ協力してくださる皆さまへの感謝を大事にしています。それがまた次の研究に繋がっている気がします。やりたいことをやれるかは自分次第。学生のみなさんには他人の言葉や社会の圧力につぶされないでほしいです。
麻酔科医として携わった患者さんが元気になって退院しているのを知ると非常にうれしい気持ちになります。麻酔科医は現在、なり手不足です。患者さんの安全を高めることを目指して一緒に研究や診療を行ってくれる仲間を待っています。