2021(令和3)年7月27日、「北海道・北東北の縄文遺跡群」がユネスコの世界文化遺産に登録されました。
弘前大学は、前身の旧制弘前高等学校時代から亀ヶ岡石器時代遺跡の発掘調査を実施するなど、考古学研究においては長い歴史があります。
2014(平成26)年には、当時の人文学部に「北日本考古学研究センター」が設置され、考古学の分野において国内有数の教育・研究機関となっています。
弘前大学人文社会科学部の教授で、「北日本考古学研究センター」のセンター長を務める上條信彦教授にお話を伺いました。

先駆けとなった、旧制弘前高等学校時代の研究

― 弘前大学には、前身の旧制弘前高等学校時代から脈々と受け継がれてきた、考古学研究の長い歴史があるそうですね。

旧制弘前高等学校時代は、まだ考古学という分野ではなく地質学の分野から研究を行い、1934(昭和9)年に亀ヶ岡石器時代遺跡の発掘調査を行っていました。亀ヶ岡石器時代遺跡は低湿地遺跡で、本来なら腐って残らない漆塗りの器や、植物で編んだかごなども多数出土しています。しかし、そこは地下水位よりも低く、植物の残骸が堆積してできた泥炭層が広がっている場所。居住地には適さない地形です。となれば、昔の人たちは水浸しの場所に住んでいたということになってしまいます。

なぜ、そのような場所から遺物が出土するのか。そんな問いに対して、当時の学会では、多くの研究者たちからさまざまな説が出されました。湖の上に人が住んでいたのではないかという説、地震によって地盤が沈下して遺物が沈み込んだ結果であるという説、また、もともと丘陵上にあった遺物が津波で低地に押し流されたという説など多くの説が出されました。

当時、旧制弘前高等学校にいらした地質学の小岩井兼輝先生(1869~1938)は、地質学の観点からそれを解明しようと、亀ヶ岡石器時代遺跡の調査研究に取り組みました。それが、現在の弘前大学の考古学研究の先駆けとなったわけです。ちなみに太宰治も小岩井先生の授業をとっていました。

研究成果によって、地域の文化の独自性を位置づけた弘前大学の功績

― 弘前大学の考古学研究の歴史について教えてください。

弘前大学の考古学研究は、1958(昭和33)年、教育学部に故・村越潔先生が着任されたことに始まります。農林省による岩木山麓の大規模な農地開発に伴い、そこに眠っている遺跡の実態を解明しようと、弘前大学をはじめ、首都圏の複数の大学、弘前市、そして地域の方々がタッグを組んで調査を行いました。村越先生は、このプロジェクトの担当者で、その時の調査によって発見されたのが弘前市の大森勝山遺跡です。

さらに、村越先生は、青森市の特別史跡 三内丸山遺跡や、七戸町の二ツ森貝塚の調査研究にも携わりました。当時、弘前大学で考古学を学ばれた学生さんのなかには、現在、考古学の第一線で活躍している方がたくさんいます。

1998(平成10)年、当時の人文学部に文化財論講座ができ、2005(平成17)年には、亀ヶ岡文化研究の第一人者であった藤沼邦彦先生のもと縄文晩期に北日本で栄えた工芸技術や文化にスポットを当てた「亀ヶ岡文化研究センター」が設置されました。

私が人文学部に着任したのは、2008(平成20)年のことです。翌年、青森市の医師、故・成田彦栄氏が収集した考古資料が寄贈され、特別収蔵展示室を設けました。東京人類学会雑誌に報告された、遮光器土偶原画を含む『佐藤蔀画譜』など、青森の考古学を知るうえで貴重な資料がたくさん収蔵されています。こちらの展示室は、オープンキャンパスや総合文化祭の時に一般公開しているので、ぜひご覧ください。

2014(平成26)年には、「亀ヶ岡文化研究センター」を母体として「北日本考古学研究センター」を設立。各自治体との共同研究も行っており、文化財・発掘資料の調査、整理、分析、保存処理なども行っています。地域とより緊密に連携をとりながら、その地域が抱えている文化財に関わる課題を一緒に解決していくとともに、文理融合型のテーマに向かって研究を進めています。

弘前大学は現在、考古学分野における国内有数の教育・研究機関として広く認知されています。今回、世界遺産に登録された北海道、青森県、岩手県、秋田県の17の構成資産のうち、8つが青森県にありますが、弘前大学の研究がなければ、構成資産の数はここまでの数にはならなかったでしょう。研究によって、この地域の文化の独自性を位置づけた先学の功績は非常に大きいと感じています。

インタビューの様子

石集めに熱中!「考古少年」と呼ばれた少年時代

― 次に、上條先生ご自身のことについてお伺いします。先生が考古学の分野に進んだきっかけは何ですか?

小学生の時に、同級生から「近くの畑で拾った」という、黒曜石を見せてもらったのがきっかけです。私は長野県出身ですが、自宅の近くに遺跡がありました。自分でも探しに行ったところ、三角形の黒曜石を見つけました。考古博物館に持って行って学芸員の方に見てもらうと、「縄文人が作ったものだよ」と教えてくれました。それ以来、考古学に惹かれ、夢中になって石を集めるようになりました。小学5年生の時から自治体が行う遺跡の発掘に参加していたので、地元ではちょっとした有名人。まわりからは、「考古少年」と呼ばれていました。

― 以来、ずっと考古学の世界に? 中高生時代はどのように過ごしていましたか?

中学校に入学してまもない頃は、考古学に没頭し、勉強そっちのけで土器を集めていました。のめり込み過ぎて、親から心配される始末…。博物館の学芸員の方からも、「こういったことは大学に入ってからでもできるから、まずは、今、勉強するべきことをやっておいた方がいいよ」と、アドバイスをいただきました。

確かに、考古学を学ぶためには、それに関わる技術や、背景知識の習得が不可欠です。考古学は、地理学や地質学、生物学など多様な知識の集合によって成り立っており、さらに語学力など幅広い知識が必要になるからです。

また、小学生ながら発掘調査に参加して痛感したのは、フィールドワークは体力勝負だということ。そこで、中高生時代はバレーボール部に所属して身体を鍛えるとともに、さまざまな分野の知識を幅広く身につけることを心がけました。

目的を果たそうとか夢を叶えようとした時に、それだけをやっていたのでは尻すぼみになってしまいます。また、壁にぶつかった時に折れてしまう可能性もあります。ですので、いろんな分野に関心を持ってある程度の知識を備えておくことが大事です。身につけた知識は将来必ず役立ちますし、その後の自分の学問のスタンスにつながっていくのだと思います。

高度な食料加工技術を持っていた縄文人

― 先生の専門分野について教えてください。

専門テーマは、先史時代における食料加工技術を中心とした生業研究です。当時の人たちがどのような生活をしていたのか、特に食べることを中心に研究しています。

縄文人といえば、狩猟生活のイメージが強いかもしれませんが、近年の考古学研究の成果によって、木の実を主なエネルギー源としていたことがわかってきました。低湿地遺跡からは、トチの実やドングリの皮がたくさん見つかっています。でも、トチの実もドングリもアクが強く、そのままでは食べられません。私も鍋でドングリを煮てみたのですが、アクで真っ黒になった水を何度も替えながら、一週間ほどグツグツ煮込まないとアクが抜けませんでした。

住居跡からは、焚き火の灰を使ってアク抜きをした痕跡が見つかっています。また、石器の付着物からデンプンが検出されていることから、石器は木の実をつぶす石ウスとして使われ、石器に残る細かな傷や光沢はその時についた痕とみられます。

遺跡から大量に出土する土器は、煮炊きなどの料理以外にもさまざまな用途に使われていたと考えられます。たとえば、水をためて木の実のアク抜きをしたり、あるいは炊飯器のように、そのままでは食べられないものを食べられるようにするための加工具として使っていたのかもしれません。縄文人は、高度な食品加工技術を持っており、食を計画的に管理する術があったからこそ、物質的・精神的な豊かさにつながったのではないでしょうか。

インタビューの様子

― 2019(令和元)年、縄文文化に関する優れた研究が評価され、「第20回 宮坂英弌記念尖石縄文文化賞」(長野県茅野市主催)を、歴代最年少で受賞されたそうですね。

木の実などをつぶす石ウス(慣例として「石皿」と呼ばれる)や、すり石などの食料加工具10万点以上について、日本列島全体にわたり形態と機能の時間的変遷を研究し、著書『縄文時代における脱殻・粉砕技術の研究』にまとめました。詳細な編年研究とともに、地域性や機能性を解き明かしたことが評価されての受賞となりました。近年では、亀ヶ岡文化の実態について発掘調査を通じて多角的に研究し、北東北地方の先史時代について新たな研究成果を出し続けていることも評価していただきました。

縄文人が作った道具や装飾品は人間の意図が現れやすく研究がしやすいため、これまで多くの研究がなされてきました。しかし、石ウスや、すり石などは、一見ただの石ころにしか見えませんし、いわゆるモノから分かる情報が少ないんです。石の一部がピカピカ光っている部分や傷跡を顕微鏡で調べて、わずかな付着物を探し出し、科学的に分析を行いました。これまであまり注目されてこなかった食料加工具の研究を通じて、縄文人の食や暮らしを解き明かすことにつながればと思っています。

縄文の暮らしから弥生の暮らしに移行するプロセスを研究

― 今、取り組んでいる研究について教えてください。

縄文時代の終わりに人々が稲作をどのように受け入れ、水稲農耕の弥生文化に移行していったのかを解明するための研究に取り組んでいます。
2019(令和元)年から、弘前市の岩木山麓にある弥生時代の湯の沢遺跡で発掘調査を行っています。今年は8月下旬から9月中旬まで、考古学研究室の学生たちと調査を行いました。湯の沢遺跡は、東北最古になる弥生時代前期の水田跡が発掘された砂沢遺跡から約5キロメートル離れた標高144メートルの場所にあります。高地で水田農耕に向かない場所ですが、標高十数メートルの砂沢遺跡と交流があったことが出土品からわかっています。

見つかった2400年前の弥生土器。
出土場所を記録するために竹串を目印とします
土偶頭部
発掘されたばかりの土偶頭部

縄文の暮らしから弥生の暮らしに移行するプロセスにおいて、私は集団ごとの考えがあったのではないかと仮説を立てています。縄文文化を持ちながら、水稲農耕を始めようと思った革新的な集団が低地で稲作を受け入れ、高地で狩猟・採集を行っていた人たちも、稲作が主食として見込めることがわかると、低地に下りていったのではないかと考えています。

当時の暮らしを明らかにするために、来年も引き続き学生たちと合宿しながら発掘調査を行う予定です。ゼミナールの学生たちは、発掘というフィールドワークが終わると、自分たちで発掘した土器などの整理作業を行い、それを図に描き、最後に報告書という形で本にまとめます。報告書は、研究者や一般の人に見てもらい、北日本考古学研究センターでは出土した土器などの展示を行います。このように、フィールドワークから出土品の活用法まで、考古学研究の流れを実践的に一貫して学べるのがこのゼミナールの特徴です。また、弘前大学がある青森県は、縄文のフィールドがたくさんあり、研究対象が豊富であるということも強みだと思います。

湯の沢遺跡での発掘調査

― 学生に指導するうえで、大切にしていることは何ですか?

学生の希望や情熱を大事にしつつ、そこに学問的な思考力と実行力、チームワークの高揚というエッセンスを加えてあげることです。

考古学は、のめり込みやすい学問ですので、ともすれば、隣の学生が何を研究しているのか関心が行き届かなくなります。ですから、視野を広げるとともに、チームワークを大切にするスタンスが重要になってきます。また、考古学研究で忙しいからと部活やバイトを辞めてしまうのではなく、大学時代は多くの経験を積んでほしいと思っています。考古学以外の分野にも広く網を張って、さまざまなことにチャレンジしてほしいと思っています。

― 卒業後の進路は?

博物館の学芸員や、官公庁の文化財保護活用部局や観光振興・まちづくり部局、大学・高校・小中学校教員、研究所研究員などです。なかには、発掘調査で培った体力や技術を生かして自衛官や警察官の鑑識になった人もいます。

― 弘前大学の魅力はどんなところにあると思いますか?

国立総合大学として、さまざまな学問分野を横断的に学ぶことができ、共同研究もさかんに行われていることです。

近年、世界的にみても、生物学、地質学などの自然科学的分析法を応用した研究が注目されています。特に気候変動対策が求められているなか、自然環境と人間の相互関係を歴史的な視点から検討されています。たとえば、海岸の遺跡立地の変化を調べるため、遺跡周辺の土壌を地理学の先生が分析したところ、田畑の広い範囲に津波による砂に覆われていたことがわかりました。近年、災害がクローズアップされていますが、そうした災害に対して人類がどう向き合ってきたのかを探り、未来の暮らしに役立てることもできます。
そんななか、弘前大学は、全国に先駆けて各分野がコラボしたプロジェクトを展開しています。

平成23~27年度には、人文学部・教育学部・理工学研究科・農学生命科学部の関連教員が協力して「冷温帯地域の遺跡資源の保存活用推進プロジェクト」に取り組みました。このプロジェクトでは農学分野の先生と研究し、遺跡から発見されるイネのDNAを抽出して、その情報をもとに効率の良い品種改良につなげています。

このように、分野を横断した研究によって、バラエティに富んだ考え方、豊かな人間性を育てることにつながります。これが、弘前大学の強みだと感じています。

― 最後に、高校生に向けてメッセージをお願いします。

高校時代にやりたいことが決まっていない場合でも、弘前大学はキャンパスの中にあらゆる分野の先生方がいて、その学問のその面白さを教えてくれます。弘前大学は、幅広い学問を広く、かつ深く学べるのが魅力です。

考古学は、過去を明らかにし、そこから先人の知恵を学ぶ学問です。1万年続いたとされる縄文時代には、気候変動や災害もあったでしょう。彼らがそれをどのように乗り越え、自然の営みに適応してきたのか。温故知新という言葉がありますが、考古学という学問は、単に過去を解明するだけではなく、そこから生きるヒントを学び、未来を創造する力になると信じています。考古学に興味のある方は、ぜひ弘前大学で一緒に学びませんか。

Questionもっと知りたい!上條センセイのこと!

― 休日の日の過ごし方は?

食べることが大好きなので、どこかに出かける時は下調べしてその土地のおいしいものを味わっています。お酒も大好きなので、地酒も楽しんでいます。

縄文文化から残る伝統食、トチ餅。トチの実をアク抜きして餅と混ぜた食品(飛騨白川郷ほか山間地域で見られます)

― 青森の食べ物で印象的なものは?

長野県出身なので、りんごは身近な食べ物でした。ただ、当時は知識が無かったせいか、主力品種の「ふじ」がほとんどというイメージ。なので、初めて弘前の「りんご公園」に行った時に、「りんごって、こんなに品種があるんだ!」と、驚きました。
それぞれのりんごに個性があって、それに合わせた料理の仕方があったり、農家の戦略があったり…。面白いですよね。
また、それに派生して、収穫したりんごを入れる木箱や、剪定ばさみ、商人など、りんごの背景にある物語にも惹かれました。食べ物を味わうと同時に、その背景にあるエピソードや物語も一緒に味わうとことを大事にしています。

思い出の写真館

大学院生時代は、海外にも発掘調査に行き、現地の若い研究者や学生たちと一緒に過ごしました。テントで暮らしたり、食べ物も水も全然違うところで同じ志を持った人たちと過ごした時間は大変貴重な経験です。

中米エルサルバドルでの調査

写真は、中米エルサルバドルで、マヤ文明の礫石器調査をしている場面。

トルティーヤ

エルサルバドルの伝統食「トルティーヤ」。

Profile

人文社会科学部文化創生課程文化資源学コース 教授/北日本考古学研究センター センター長
上條 信彦(かみじょう のぶひこ)

長野県松本市生まれ 。
専門テーマは、東アジア先史時代における食料加工技術を中心とした生業研究。
名古屋と福岡の大学で学び、中国に留学した後、2008年に当時の弘前大学人文学部に着任。2017年「第7回日本考古学協会賞 奨励賞」、2019年「第20回 宮坂英弌記念尖石縄文文化賞」などを受賞。2020年よりセンター長。